1.06.2009

迎春とPARISとFALLと

あけましておめでとうございます。本年もお付き合いください。

年末年始はふいに思い立ってギリシャのクレタ島に……行けるわけはなく(そういうことしてみたいな)、例年になく地味な正月を過ごしたように思う。ただの連休というかんじ。

渋谷ル・シネマでセドリック・クラピッシュ監督「PARIS」を観た。日々の生活に追われている社会福祉士のシングルマザー(恋人も希望の類いもナシ)という地味な(というか、まあ、そこらへんにいそうな普通の)役を演じたジュリエット・ビノシュが素晴らしかった。ずいぶん前の映画だけど「存在の耐えられない軽さ」のテレザ役もそうだったし、「汚れた血」のアンナ役もヒロインのわりにはそうだったけど、この人は地味な/野暮ったい/疲弊した役をやらせると最高だな。生活に埋もれていないと滲み出ない女の色気、あるいは色気の残滓みたいなものが彼女の演技からは匂い立ってくる(そういえば、かつては、好きな女優を訊かれたらジュリエット・ビノシュと答えていたのだった)。映画自体はとても良いシーンといささか興醒めなシーンとが相殺して、結局、並みの出来になってしまっているように思った。あと、驚くべきことに、予告編ではキーンKeaneのセンチメンタルすぎる曲が映像を覆い尽くすような音量で流れていて、かなり警戒していたのだが、本編ではどこにも使われていなかった。ん? いや、もちろん、おれとしてはそれで正解だと思ったし安堵もしたのだけど、他方では構えていたぶん拍子抜けもしており、終演後にさっそく係の人に尋ねたら、「あれは日本だけのイメージソングです」ということだった。おいおい。そんなのアリかよ。ま、ようするに、あのくらい感傷的なムードで宣伝しないと日本では客を集められないという配給側の判断なんだろうけど。やばいね。やばいよ。こうして、わたしたちは文化の下り坂を転げ落ちてゆくのだ、たぶん。安直なローカリズムの信奉者はこれに異を唱えるのだろうけど。

元旦の夜遅くに、なんの気なしにレコードに針を落としたフォール/The Fall に、再び、魂をもっていかれた。以来、ハマっている。他のを聴く気がしないほど、ハマっている。じっさい、ここ数日はフォール以外の音楽をほとんど聴いていない。食事の時にも大音量でかけてワイフに煙たがられている。で、現在所有していない(というのは、何枚かはこんなにハマるとは知らずに20代の頃に引越だとか家賃を払うためだとかの理由で売ってしまったのだ)彼らのCDやLPを揃えていこうと思ったのだが、ちゃんと調べてみると、彼らのアルバムは、オリジナル盤だけで27枚、コンピ盤やライブ盤を合わせると100枚(!)にもなるようで、いきなり眩暈。膝が落ちるぜ。誰か金くれよ。それにしても、The Fallのイギリスやアメリカでの根強い人気や評価や影響と日本でのそれらとの甚大な差っていったいどういうことなのだろう。もちろん、彼らの最大の魅力のひとつが、マーク・E・スミスの辛辣にして難解な(…らしい)歌詞にあるということは明白なのだけど、おれは歌詞なんてほとんどわからずにハマってるぜ? やばいのはこのおれなのか? ……かもしれん。まあいいけど。ちなみに、おれは96年にハシエンダ@マンチェスターで、彼らのライヴを体験している。今となってはなかなかの自慢である。ヘヘへ。