7.25.2009

痩せ細った世界

 気がつけば、ひさしぶり。ここんところなんだかんだと忙しいんだよね。その、なんだかんだ、については、おいおい書いていくつもりだけど。

 今日は少し『1Q84』の話でも。
 このブログを定期的に読んでくれている人はおそらくご存知だと思うけど、ぼくは、日本の文芸については、いや、文芸だけではないな、日本の映画についても日本の音楽についても、大絶賛の場合を除き、なるべく書かないようにしているのね。ようするに、いろいろと面倒なんだよ。直接は知らなくとも、間接的には知っていたりするし。絶賛の時は「最高!」で済むけど、批判するにはそれなりのロジックが必要になるし。ただの「いちゃもん」が一種の諧謔として受容される可能性は、現在の日本社会では極めて低いし。というか、人との関係性を離れて、作品そのものと対峙する批評が、差しさわりなくまかり通るほど、成熟した社会には住んでいない、残念ながら、ぼくらは。……まあ、とはいえ、多額の原稿料が発生するならばやってもいいんだけどね(現金なおれ!)、ブログでそこまでやる体力も気力も金力もわたしにはありません。
 しか〜し。村上春樹くらい雲の上の作家の作品についてならば、ちょっとは「いちゃもん」を付けてもいいんじゃないかと。村上春樹はすでに〈Haruki Murakami〉という国際的な作家でもあるわけだし。そのように思い、今日はキーボードに向かっております。
 
 そう、じつは、しばらく前から『1Q84』を読んでいるんだけど、なっかなか進まない。なっかなか物語に入っていけない。もっとも、まとまった読書時間を取れないせいでもあるんだけど、どうもそれだけではない。ふと気づくと別の本を読んでいたりもするし(おれの鞄の中にはたいてい複数の本が入っているので)。なんでだろう? 
 いくつか理由は考えられるんだけど、その最たるものは登場人物の造形なんだと思う。つまりね、どいつもこいつも、ストイックで勤勉で何をするにも手際が良く(それぞれの位相において)雄弁で(それぞれの分野において)有能なんだよ。それも半端じゃないレヴェルで。(1巻の終盤に差し掛かった今のところ)ただの一人も、チャーミングだけどぐだぐだな奴とかがんばり屋だけどとことん凡庸な奴とかお人好しだけど悲しいかな愚鈍な奴とかは登場しない。女主人公に殺される、小説内の表現では「ネズミ野郎」でさえ、ドメスティック・バイオレンスの人非人ではあるけれど出自はめっちゃ良いし仕事においては異様に能力が高い。そういう、卓抜した、しいて言えば、超越した、人物しか登場しない小説世界にあって、それを読むおれは、ここでは名も与えられていない、その他大勢の人間の一人だって感じるわけ。小説世界からあっさり締め出された、とるに足らない人間の一人だって感じるわけ。ようするに、疎外感というほかないものを。で、いつのまにか、白けてる。眠くなってる。眠ってる。
 まあ、小説ってのは、物語ってのは、フィクションってのは、そんなもんなんだ、っていう考え方もあるだろうし、その考えにはたしかに一理ある。ぐだぐだな人間ばかり登場してたら、ストーリーはたいして進捗しないだろう。少なくともドラスティックには展開しないだろう。でも、ドラスティックに展開していけば、それで万事オッケーってわけじゃない。というか、超越的な登場人物によるドラスティックな展開の物語、なんて、あまりにも前近代的じゃないか。もっとも、村上春樹は、そのあたりをきちんと踏まえた上で、2009年の今、あえて大文字の物語に挑戦してるのかもしれないけど。……しかしねえ。
 いま、そのあたりを踏まえて、って書いたけど、じつは、そういう大層な使命なんかよりも、むしろ単純に、実存的に、春樹さん自身が、ストイックで勤勉で手際の良い人であって、ぐうたらで怠惰で手際の悪い人間が好きじゃない、もっと強く言えば、嫌っている、というのが、身も蓋もないけど、事の真相なんじゃないか、と(意地悪くも)睨んでいる。だから、ホメロスやシェイクスピアやドストエフスキーを読んでも感じたことのない、疎外感を、締め出されている感を、ぐだぐだな(!)おれは覚えてしまうのではないかな。
 このへんのことと関係して、ふと思い出したのが、またしてもチャールズ・ブコウスキーの言葉で、かのぐだぐだ野郎は(おおよそ)こんなことを言っていたはず――「午前八時にタイプライターに向かっている奴から本当のユーモアが生まれるわけがない」。この名言、あるいは迷言は、一方で、おれのような怠け者に寝坊する格好の口実を与えてくれもしているのだけど、他方でやはり、なかなかに正鵠を得ていると言わざるを……いやいや、正鵠を得ている、なんて物言いは、ブコちゃんには似合わないな、うん、とにもかくにも、痛快だ。
 そうなのだ、『1Q84』には、至る所に「ユーモアのようなもの」が、ちりばめられているのだけど、率直に言って、これらの大部分が寒い。真冬の、とは言わないけれど、春先の礼文島くらいには、寒い。やっぱ、春樹さんのようなストイックで早起きで勤勉な人って、おうおうにしてユーモアのセンスが欠落してくるのではないだろうか。「ユーモアのセンス」の代わりに、「慈しみ」や「豊饒さ」という言葉を入れてもいい。
 ま、こういうのは、ぐだぐだ野郎の惨めな遠吠えなんだろうけどね。――たしかに、勤勉さが達成させる偉業は数多いだろう、けれども、時にそれは、その人間とこの世界を危険なほどに痩せ細らせる一因であるかもしれないんだぜ。気をつけろ、「勤勉さ」とやらに。疑いの目を向けろ、「一生懸命」とやらに。
 
 というわけで、読了してもいない『1Q84』に、いちゃもんを付けてみました。読了してから書こうと思ってたけど、永遠に読了できないかもしれないし。読了してしまうと、いちゃもんは付けられないかもしれないし。